政経倶楽部【東京】第151回例会(朝食会) 7/6 木

日時:2017年7月6日  開会:~ (開場:)
会場:ルポール麹町 東京都千代田区平河町2-4-3 TEL03-3265-5365 有楽町線「麹町駅」 1番出口より徒歩3分. 有楽町線・半蔵門線 「永田町駅」 5番出口より徒歩5分.
 

勝海舟~幕末の巨人・江戸城無血開城の真実

■講演 岡田幹彦氏  歴史人物研究家・日本政策研究センター主任研究員

「勝海舟~幕末の巨人・江戸城無血開城の真実」


【岡田幹彦氏プロフィール】

昭和21年北海道生まれ。国学院大学中退。
学生時代より、日本の歴史、人物の研究をつづけ、月刊『明日への選択』に
多くの人物伝を掲載中。『歴史街道』『歴史通』などにも寄稿。
全国各地で歴史人物の講演活動を行っている。
著書多数。
『東郷平八郎』『乃木希典』『小村寿太郎』(展転社)、『日本を護った軍人の物語』(祥伝社)、『日本の誇り103人』(光明思想社)、『二宮尊徳』、『維新の先駆者』『親日はかくして生まれた』(日本政策研究センター)、
『日本の偉人物語①二宮尊徳・坂本龍馬・東郷平八郎』(光明思想社)等。



【勝海舟(かつ・かいしゅう)】

文政6年(1823)~明治32年(1899)。江戸時代末期の幕臣、明治初期の政治家。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」の一人。万延元年(1860)には咸臨丸で渡米し、帰国後軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、西郷隆盛と談判し江戸城無血開城を実現



●幕末の巨人、勝海舟。負けた幕府側の人間でありながら維新の代表的人物

勝海舟は、幕末の巨人。私が最も敬愛する歴史上の人物の一人だ。
勝海舟は、明治維新で倒された幕府側の人間でありながら、倒した側の薩長の人間たちと並ぶ人物である。凄いことだ。
本日は、前半に、勝海舟がいかなる人物であったのか、その生い立ち、艱難辛苦の中から自分を鍛え上げたお話をし、後半は、西郷隆盛との江戸城無血開城談判のお話をしたい。


【(一)若年時の困苦と試練(剣術と蘭学)が、勝海舟をつくりあげた】

●父、小吉。やくざな父だが人情厚い剣術家。類まれなる父性愛の持ち主

勝海舟は最下級の幕臣の家に生まれた。父、勝小吉(かつ・こきち)は、面白い人物だった。海舟はこの父親から大きな影響を受けた。
小吉は家が貧しく、ヤクザな生活におちいり、飲む、打つ、買う(大酒を飲み、ばくちを打ち、女を買う)で親戚から見放されるほどだったが、長所もあった。
第一に、小吉は剣術の腕が優れていた。親戚には江戸きっての剣術家、男谷精一郎(おだに・せいいちろう)もいた。小吉はその男谷家から勝家に養子に入っていた。また小吉は非常に人情厚い人間で、人の難儀を黙って見ていることができず、下町の人々から大変慕われていた。だが学問はなく、「俺は学問がなくて道を踏み外してしまった」と言っていた。
だから、息子の勝麟太郎(=勝海舟)に、大きな期待をした。幸い、麟太郎は素晴らしい人格と頭脳を持って生まれてきた。

小吉の麟太郎への父性愛の逸話を一つ紹介しよう。
麟太郎が9歳のある日、狂犬に男子の急所をかまれ瀕死の状態となる。医者を呼ぶが何しろ急所で簡単に手術もできない。小吉は医者に迫り何とか手術をして命は助かるものの、生きるか死ぬかの70日間となった。その70日間、1日もかかさず小吉は麟太郎を抱いて寝た。傷の包帯の取り換えなどすべて面倒を見た。70日間かかさず、近くの金毘羅神社に裸参りでひたすら全快を祈った。
この父性愛が、海舟には忘れがたい思い出となる。
小吉は世間からはやくざな男と思われたが、海舟にとってはこの父親がすべてだった。小吉は病気で早くに亡くなるが、この父親から受けた感化が大きかった。父親からの人並み外れた熱気、気魄、愛情を肌身を通して受け継いだのだ。そして勝海舟と言う不世出の偉人が誕生した。

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