政経倶楽部【東京】第175回例会(朝食会) 7/4 木

日時:2019年7月4日  開会:~ (開場:)
会場:ルポール麹町 東京都千代田区平河町2-4-3 TEL03-3265-5365 有楽町線「麹町駅」 1番出口より徒歩3分. 有楽町線・半蔵門線 「永田町駅」 5番出口より徒歩5分.
 

「日本型資本主義を取り戻し 経済大国を再現しよう」

講演 小林 興起(こばやし こうき)氏                自由国民党代表 元財務副大臣 元衆議院議員

「日本型資本主義を取り戻し 経済大国を再現しよう」


【小林 興起 氏 プロフィール】

1944年(昭和19年)1月1日東京都生まれ 都立日比谷高校卒。
1966年(昭和41年)東大法学部卒。
通商産業省入省。堺屋太一氏の直属の部下として活躍。
政府派遣米国留学として2年間ペンシルバニア大学院へ。MBA 取得。
1980年 聖心女子大学講師
1983年(昭和58年)16年勤めた通商産業省退官。
地盤・看板・鞄なしで、39歳で衆議院選挙に出馬するも落選(保守系無所属)。
1990年(平成2年) 第39回衆議院選挙中選挙区制度、東京第5区で8年間
に渡る浪人生活を経て、46歳で103,179票で初当選(自民党)。
本音を語る政治家としてマスコミでも活躍。
以後、衆議員当選5回、労働政務次官 財務副大臣(第一次小泉内閣)等歴任 
2005年7月、郵政民営化法案採決で青票(反対)を投じる。
郵政解散選挙で刺客を送り込まれ、マスコミの偏向報道もあり落選。
2009年(平成21年)衆議院選挙比例東京ブロックにて当選(民主党)
2012年6月、民主党が「やらない」と公約した消費増税法案に、青票(反対)を投じる。与党議員として、政治生命をかけた2度目の反対票だった。
2014年(平成26年)「国民党」代表就任
2018年(平成30年)「自由国民党」に改名
2019年7月(令和元年)参院選挙に立候補予定するも直前にとりやめた
主な著書に『主権在米経済』、『裏切る政治』(共に光文社)など
小林氏HP https://kobachan.jp/自由国民党HPhttps://kokumintou.jp/
選挙で苦労を重ねた経験を生かし、「小林興起政経塾」を主宰、若手議員育成にあたり数多くの地方議員を送り出している。


●「興起」の名は「政治家になり国を興せ」の意。46歳で国会議員になるまで

私は、戦時の昭和19年1月1日に生まれた。興起という名前は、「政治家になり国を興して起こせ」という父の願いが込められている。
物心ついた頃、私の目に焼き付いている東京の光景はあちらこちらに広がる焼野原だった。食べるものもあまりなかった敗戦の貧困の中で、私は、日本をいつか自分が豊かにしたいと思うようになった。
父の望みどおり、政治家になるべく、私は越境して九段中学に通い、日比谷高校から東大に進学した。官僚になって政界へ入って行こうという思いがあったからだ。
東大で講演を聴いた特許庁長官の佐橋滋氏(後に通産省事務次官。大物官僚として城山三郎著『官僚たちの夏』の主人公として登場)の導きで、私は1966年(昭和41年)通産省に入省した。佐橋氏は退職後、天下りを拒否し浪人生活を送る中で、「このポストなら」と(財)余暇開発センター理事長に就任されたが、その時、私は通産省余暇開発室長として薫陶を受けた。
また、堺屋太一氏(本名・池口小太郎)の直属の部下(堺屋氏が課長補佐、私が係長)として指導を受ける幸運にも恵まれた。堺屋太一氏が提唱し開催した「大阪万博」(1970年・昭和45年)にも堺屋氏と何度も視察に訪れた。
そんな中、日ごろの功績が認められて地元から声がかかり、選挙に立候補して政治家になる同僚たちもいたが、東京出身の私にはその機会はなかなかなかった。だがようやく、当時、自民党の一時代を築いていた中川一郎衆議院議員にスカウトされ、政界入りをめざし通産省を辞することになった。通産省も「中川先生なら」と快く辞職を認めてくれた。
1983年(昭和58年)の正月、39歳の私は中川一郎邸の新年会に招かれた。中川先生から激励を受け、前途洋洋、希望に満ちていた。ところが急転直下、数日後の中川氏の突然の死でどん底に落とされた。その年の12月に行われた衆院選では、地盤・看板・鞄なしで、保守系無所属で初出馬するも、供託金没収の大惨敗。以後、雨にも負けず風にも負けず1年365日毎朝駅頭に立ち、政策を訴え続けた。
1990年(平成2年)安倍晋太郎衆議院議員にご指導いただき、46歳で初当選を果たした。実に、8年間の歳月を費やしたのだった。

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